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愛猫の姿を忘れかけている衝撃・思い出化の加速

今月はじめ、愛猫のまるをなくした。

7月中旬から突然食べなくなり、大きな病院にも連れて行ったけれど、8月1日の未明、あっけなく旅立った。

可愛くて可愛くてたまらない、愛しい存在。

平均寿命よりはやく、病気でいかせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱい。

でも、とても幸せだったし、夫も交え、楽しい日々を過ごせたと思う。最後ちょっと、30分くらい苦しんだけれど、とても上手に旅立った。

旅立ちの後、私自身のセラピーのために、このあたりのことは、別で書き残しているので、順に公開していこうと思う。

親や同僚からもペットロスをとても心配されたが、話を聞いてもらったり、書き残したり、本を読んだりすることで、想像以上にしっかりしていられた。

まわりの人に救われて、新たな感謝を知った機会にもなった。

旅立って12日後のいま

今朝は旅立って12日後ということになる。とてもあっという間だった。

パリ五輪がやってくれていたおかげで、夜中に目が覚めても気を紛らわせるものがあった。パリ五輪も昨日終わり、一週間の夏季休暇にも入り、どうしたもんかという毎日。

でも時間薬とはよく言ったもので、まるのいない日々にもなんとなく慣れてきた。

-朝、目が覚めるとぴょん、とベッドの足元から登ってくる。まるおはよう、と声をかけると、鼻をすんすん鳴らしながら私の顔の方まで歩いてくる。私の顔の前で、頭をころんと壁側に倒して、お腹を上に向けて撫でろ、とやる。喉元をなでると、ゴロゴロいう。
-キッチンに立っていると、尻尾を高く上げ、くねらせながら、キッチンの横を通り過ぎる。「まるー」と声を掛けると、満足そうな雰囲気で、そろそろ飯?という感じで歩みを止める。

そんな日常が10年以上も続いたんだ、ということが信じられない。毎日の暮らしに入り込みすぎているのか、思い出として積み重なってきたものというより、そこにそういう風景・情景があった、そしてそれが今、なくなった、という感覚に近い。

夫は寂しい、と言い元気がない。私は寂しい、というより、何かがないという感じに近かった。もちろん、まるはものではないんだけれど。

指には残る、あたたかくふわふわの感触

なくしてすぐは、まるのふわふわの毛を撫でる感覚を忘れたくない、と思っていて、指先でまるを撫でる感覚を呼び起こしていた。それは意外と忘れていない組手、今も、指に、手にリアルに残っている。

いざとなれば、まるの亡骸からカットさせてもらった毛を触って、さらにリアルに呼び戻すこともできる・・これはまだしていない。

まるは、あまりゆっくり撫でさせてくれなかったので、亡骸をたくさん撫でさせてもらった。一緒にいたのは、数時間だったけど、撫でているうちに、この感触を忘れたくない、と毛をカットさせてもらった。あきれてるだろうな、まる。

光景が映像化?思い出化が加速している?

2−3日前まで、まるがいないねー、まるーと声に出しながらキッチンにたったりしていたが、夫からいい加減やめたら、と言われてしまった。もういないんだからと。

人それぞれ癒やされ方はあるのだけれど、夫の気持ちも癒やしたいので、夫の前で声に出すのは控えるようにした。

そのせいもあるのか、一気にまるがいない現実がリアルなものになった。

今朝、ふと目を覚ましたとき、まるがベッド登ってこないことにはもう慣れていたんだけれど、どんな顔でまるがベッドに上がってきていたのかがよく思い出せなくなっていた。

もちろん、まるの顔や、すんすん鳴らしていた鼻の音、ころんと転がる仕草はリアルに覚えているんだけれど、その表情というか、対面のコミュニケーションというか、がもうおぼろげになってきているのだ。

まるで映像で見ているような感じ。

これは小さな変化かもしれないけれど、私にはショックだったし、寂しい、と思った。

こういうふうに、まるが思い出になっていってしまう。写真や動画はたくさんあるけれど、ベッドに登って歩いてくるまるを、私の寝ていた角度から撮ったことはない。暗いし、寝起きでいきなり撮らないから。ベッドに登ってきたら、なるべくゆっくり撫でたかったし、朝の貴重な時間だったけれど、ゆっくり時間を過ごしたかったし。。

そもそもまるは撮影が好きではなかったから、そこで撮影したら、ぷいっとどこかに行ってしまっただろう。

小さい頃の思い出のように、写真の中での光景が思い出の中心となり、その出来事自体は正直覚えていない。写真を見ることでそういう事があったんだと記憶し直しているというような感じ、、

まるとの関係もそうなってしまうのかな、と、とても悲しくなった。

そろそろ写真や動画を見返す時期が来たのかな、と思った。

次回からは写真も載せられるかな。