まるの墓前の花と水は欠かさない。
毎朝おはようって言う。まるの毛のふわふわした感触や、抱いたときの肉感、表情、ゴロゴロと鳴らす声なんかを思い出す。
まだまだリアルに蘇る。
8月1日が命日なんだけど、すでに何周忌か忘れてしまっていた。
会社の同僚で、私が密かに「猫姉さん」と呼んでいる方がいる。
ご実家でお母様がたくさん猫を飼われていて、お母様が亡くなられたあと、残された猫の世話をし、最後の1匹を育てられていた。
まるが生きていた頃から、猫の知識を教えていただいたり、病気になったときや、もうご飯を食べなくなったときなど、相談して大変支えてもらった恩人だ。
その猫ちゃんも天に召され、一周忌を迎えるという。
「まるちゃんが何周忌かわからなくなりました」
と私。
確認すれば分かるんだけど、わざわざそこに触れたくない。
話しているうちに、
「あれ? まだ二周忌だ」
と判明した。
長いようで短い2年。
まるが生きていたら、13歳。
そういえば、中学2年の姪と同じ年だ。
まるを思い出す
11年暮らし、2年前に亡くなったまる。
今思い出すのは、
まるの感触と、まるが私のいるところに現れたときの高揚。
そんなとき必ず、「まるー」と声をかける。そして、まるは照れたように伸びをする。
猫と暮らせる、夢のような気持ち。
また、いろいろ面倒をみさせてもらったな、ということ。
最期の晩の、クリクリとした目で私を見つめる愛くるしい顔。
デジタルまる
まるが亡くなってしばらく、私は位牌に使っている写真以外、まるの写真を見ることができなかった。
正直、いまもできていない。
自分から探すことはしない。
むかしのスマホの写真を早くメモリーカードに取り出さなきゃ。
毎月のTODOリストにあるけど、スマホを充電しても、画像の取り出しに進まない。
そんな私を見かねてか、リビングにあるAmazonの端末のスクリーンセーバーに、夫がまるの写真をセットした。「可愛いから見たらいいよ」
私に強制的にまるの写真を見せている。
正直、最初の頃は直視するのも辛かったが、次第に慣れてきた。
写真が変わるたびに目が行き、違うまるが出てくる。確かにとても可愛いまるばかり。
たまに、
「まる、まる、かわいいね」
と言う。
夫が撮った写真なので、私が見たことのない表情や行動をしているまるがいる。
しばらくすると、とても不思議なことに、まると生活しているような気持ちになってきた。
全くそうではないのだけれど、いつも違う表情を見せて、そこにまるがいる。
まるがいない、じゃなくて、まるがいる。
私はこのデジタルまる、そしてまるの遺骨があれば、ずっとまるといられている。
そんな感覚になっている。

まるのものは処分しない
まだ、まるの使っていたものは処分できていない。
というか、していない。
亡くなってすぐは見るのが辛く、リビングのクローゼットには片付けたが、まだ、そこにあるまま。
「処分したくない」「処分できない」ではなく、「処分しない」。
そのまま、そこで、という気分。
私はなんでもすぐ処分すると家族から言われるが、まるのものは別だ。
猫姉さんは、爪とぎもまだ出しっぱなしにしているとのこと。
そこで爪とぎをする姿を思い出すのは幸せになるな、と想像した。
私も爪とぎ出してみようかな。
まると永遠に一緒
まるが亡くなって2年。
いないことには変わりないのに、私は今、とても幸せだと思う。
デジタルまるがいて、まるの遺骨があって、まるの使っていたものもまだそこにある。
それだけで、まると一緒に暮らしているような気持ちになれる。
そして、まると永遠に生活できる気がしている。
まるを失った悲しみはなくならない。
でも、今の私は、まるがいてくれたことがとても幸せだ。
そして最期は一緒のお墓に入りたい。
樹木葬がいいな。








